コロムビア専属時代は、70年から77年まで。シングル盤ですと、「わたしだけのもの」から「ロマンチスト」までになりますね
後半は『サウンド・イン“S”』という音楽番組をやっていたんですけど、レコーディングしても番組ではほとんど歌えなかったんですよ。「日本語だから」って言われて(笑)。番組の方針には合わなかったんです。とてもクオリティの高い、いい番組ではあったんですけれども。
それ以前、カバーも多かったキングレコード時代に比べて、大人っぽいオリジナル作品がグッと増えましたね
(レーベルが変わっても)
私自身は全然変わってなかったんですよね。自分からこういう曲を歌いたいということを言ったこともなかったですし。とにかくレコーディングが嫌いな人で(笑)。ヘッドフォンが昔から駄目なんです。金魚鉢(スタジオ内のブース)を見られるのがイヤで、外から全部囲ってもらったりして。自分だけの空間にしてもらっていました。だからあまり明るいレコーディングではなかったですね(笑)。オケの録音に立ち会うこともなくて、あまりしゃべらず、歌入れだけサッと終わらす感じでした。
やはり、ステージで歌われる方が楽しいですか?
そうですね、特にあの頃は生バンド、生歌が常でしたから。その方が性に合ってたんじゃないでしょうか。レコーディングでは、それまでにお仕事をご一緒していた先生がたはともかく、初めて立ち会われた作曲家のかたとかには、ずいぶん無愛想な歌手だなと思われていたかもしれません(笑)。
筒美京平さんとのお仕事も、コロムビア時代からでしたね
筒美先生と初めてお会いしたのは、曲をいただく以前、私がまだ結婚していた頃に新居にお邪魔したことがあって、その時だったと思います。市川昭介先生ご夫妻も一緒でした。あまりしゃべることはなくて、それよりもギターを弾きながらみんなで歌ったりしたのを憶えています。その後、曲を書いていただくことになるんですけど、実際に「わぁ、いい曲だ」とか「嬉しい」っていうのはないんですよ。それは筒美先生に限らず昔からのくせで、ただ与えられたものを歌うみたいな。だから「ここをこう直したい」とか「こう歌いたい」みたいなことも言ってないんです。
筒美さんの「誰も知らない」はチャートトップ10に入るヒットになりました
元来、リズミカルな曲は得意ではなかったので、いただいた時はちょっとびっくりしましたけれども。実際にレコーディングの時にリズムに乗り切れていない私に、筒美先生からのご指導があったと記憶しています。もちろんヒットするかどうかなんてことは考えずに、いつものように淡々とレコーディングをしていたと思います。
例えば、遡って「小指の想い出」とか「恋のしずく」の時もヒットの予感みたいなものはなかったですか
それよりも「小指の想い出」はとにかく、こんな歌謡曲を歌いたくないっていう想いが強かったんです。これは園まりさんに歌ってもらってくださいって言ったくらい(笑)。(作詩の)有馬三恵子先生と(作曲の)鈴木淳先生は当時ご夫婦でしたけど、お二人とも人見知りなのかあまり話せずにコミュニケーションもとれないままで、生意気だと思われたでしょう。今では鈴木先生ともたまにお会いする機会がありますけど、「あの頃、ゆかりちゃんには泣かされたよなぁ」なんておっしゃいます。
72年の『ふたたび愛を』は筒美さんとの共演盤で傑作と名高きアルバムです
あのジャケットは筒美先生と一緒に写っていて。私も好きなんです。自然でいい雰囲気ですよね。笑顔が少ない私の写真の中でも珍しい。カメラマンのかたがお上手だったんでしょう。自分のジャケットは好きじゃないんですけど、これだけは例外です。
LPでは片面がオリジナルで、もう片面がカヴァーという構成になっていました
そうですか。あまり憶えてないんですけど(笑)。カヴァーはコンサートで歌っていたりした曲が多いと思います。いしだあゆみさんの「夢でいいから」は好きですね。オリジナルは既にあった曲に加えて、アルバム用に何曲か書き下ろしていただいたんだと思います。
ほかにアルバムやシングルで想い出深い作品はありますでしょうか
コロムビアさんに入った最初の頃は、それまでお世話になっていた渡辺プロを辞めて、周りがわりと落ち着かない時期ではあったんです。私自身はそんなに変わらずやってたつもりでしたけど、そんなに充実感がなかったせいなのか、「さすらい」っていう曲をテレビで歌った姿が投げやりに見えたようで、作詩された吉田旺先生から呼び出されたんです。それで、「ゆかりさんにとってはただの一曲かもしれないけど、作っている僕たちは、この人に合うかなとかいろいろ考えながら一所懸命作ってるんです。だから歌う時はしっかり心を込めて歌ってください」と言われてハッとしました。そのことはすごく印象に残っています。それからはステージで歌う時も、歌詩がお客様にハッキリと届かないような音響さんは苦手になってしまいました。
「さすらい」はコロムビア移籍されて2枚目のシングルでしたね。そのほかの作品についてはいかがでしょうか
「朝が来たら」という曲は、ちょうど娘(歌手・宙美さん)がお腹の中にいる時の曲だったんですよ。鈴木邦彦先生にいただいたいい曲でしたけど、お腹も大きくなっている時のジャケット撮影が嫌だったのを憶えてますね。そのあと、中村泰士先生にも何曲か書いていただいて。佐川(満男)さんと仲が良かったですから。「深夜放送」という曲はファンの皆さんの間でもお好きなかたが多いみたいですね。当時、先生が家にいらした時、佐川さんと一緒にボロンボロンとギターを弾いているうちに出来ちゃった曲だったと思います。おおらかな時代ですよね。あと、「1990年」というのは好きな曲のひとつです。コンサートでもいろんなアレンジで歌いました。
71年の『LOVE』は伊東ゆかりとグリーン・ジンジャー*シ義、外国曲のカヴァーで構成された異色のアルバムでしたね
英語の詩に苦労しましたけど、好きなアルバムですよ。特に苦労したのが「ユア・ソング(僕の歌は君の歌)」だったのを憶えてます。東海林修先生のアレンジで、オリジナル曲も書かれて。川添(象郎)さんのプロデュースでしたね。ジャケットに私の顔が写ってないのが好きなんですよ(笑)。
コロムビア時代最後のシングルになったのが77年の「ロマンチスト」で筒美作品。作詩が松本隆さんでした
「ロマンチスト」がコロムビアさんでのラストになりますか。これは『サウンド・インS=xでも歌わせてもらえました(笑)。ギョロナベさん≠ニ呼ばれていたTBSの渡辺さん、懐かしいです。そういえばコロムビアさんでもずいぶんたくさんレコードを出していただいていたんですね。改めてリストを見ると、本当にいろんな先生がたが曲を書かれていますよね。歌い手にとってかけがえのない財産だとつくづく思います。聴いていただく方々にも一曲一曲にいろんな想い出があるはずで、そんな時代を想い出しながら聴いていただけたら嬉しいですね。昔、宮川(泰)先生から、「ゆかりの歌はパンチが足りないんだよ。右から左に流れていっちゃうんだよな」なんて言われたことがありましたけど、今はその流れてゆく感じも逆にいいのかもしれないなぁなんて。歌を聴いて元気を出していただくのも嬉しいですけど、イージーリスニングみたいな聴かれかたも嫌いじゃないです。コンサートに来て寝てしまうお客様もたまにいらっしゃいますが、それはそれでありなんじゃないでしょうかね(笑)。
インタビュアー:鈴木啓之 (2021年6月4日 東京・赤坂にて)
幼少時から米軍キャンプで歌い始め1958年、11歳でキングレコードからデビュー。その後渡辺プロダクション“スパーク三人娘”(他の2人は中尾ミエ、園まり)として売り出し、キング時代は「小指の想い出」「恋のしずく」がヒット。70年コロムビア/DENONレーベル移籍後は「誰も知らない」「わたし女ですもの」がヒット、円熟期の歌声を聴かせた。
●制作/日本コロムビア
●選曲・解説:鈴木啓之